奈良県 吉野山 義経の道
奈良県 吉野山 義経の道
義経主従が文治元年(1185)11月17日より5日間潜居した元の吉水院。 明治初年、廃仏毀釈により神社に改められ現在に至っています。書院の中には、義経潜居の間があり、その傍らに一畳ほどの弁慶思案の間があります。ここで弁慶が今後のことを思案したといわれています。
(義経潜居の間)
また一行にゆかりの品として、義経所用の色々威腹巻や蔵・鎧・静所用の鎧・弁慶所用の籠手や七つ道具、佐藤忠信所持の兜など様々な品物がここ吉水神社には伝えられています。また一行にゆかりの品として、義経所用の色々威腹巻や蔵・鎧・静所用の鎧・弁慶所用の籠手や七つ道具、佐藤忠信所持の兜など様々な品物がここ吉水神社には伝えられています。
(弁慶思案の間)
弁慶力釘
弁慶が力試しのために指先で
岩に釘を二本押し込んだ釘と
いわれています。
義経の馬蹄跡
義経が馬に乗って岩に駆け
登った時に出来たという馬の
足跡とされています。
( 勝手神社)
義経と雪深い愛染の山頂(上の千本付近)のあたりで別れた静は、共の者に金銀を奪われ一夜を山中でさまよい、ようやく藤尾坂までたどり着いた時、金峯山寺の荒法師に見とがめられ、捕らわれの身となります。そして、この神前で舞を所望され、僧兵たちを感嘆させたと言われています。やがて吉野執行の手で鎌倉へと護送され、頼朝の面前に呼ばれた時、静は
「吉野山峯の白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき」
「しずやしずしずのをだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」
と舞って一座を感動させたといいます。
(義経公静旧跡・舞塚)
静の舞姿
水墨画家 井上喜斎氏
(花矢倉からの景色)
吉野水分神社のある、子守の集落への最後の上りを獅子尾坂といいますが、上りつめた右の小さな丘が、佐藤忠信の花矢倉です。
奥州以来の忠臣佐藤忠信はしんがりをひきうけて、獅子尾坂の頂上花矢倉の木立ちに身をよせ、攻め登る山僧めがけてさんざんに矢を射、吉野一の悪僧である横川覚範を討ち取った後も、なおも追いすがる僧兵たちに矢を射かけた所です。
(横川覚範の首塚・供養塔)
横川覚範の首
花矢倉から道を大きく左右に曲がった所に佐藤忠信と戦って討たれた横川覚範の首塚があります。覚範は、比叡山の横川で修行を積んだ豪僧で、当時、吉野山の妙覚院にきていました。悪僧というのは、武勇にすぐれた僧ということです。覚範は吉野山に身を寄せる客僧だったので、死を覚悟してあえて義経に迫ったのでした。覚範は、ここで佐藤忠信と激しい死闘のあげく、塚の裏の谷、中院谷で討たれてしまいました。
(桜木神社)
この神社と義経とは直接の関りはありませんが、この神社の前には屋根のついた屋形橋があります。義経が吉野山から落ち逃れてようやくこの付近まで来た時、ここに屋根を葺いた屋形橋があり、その景色のよさと疲れの為、思わずうたた寝をした「うたたね橋」があったといいます。そのイメ−ジを再現したのが、この橋といわれています。
(柴 橋)
柴 橋
義経はこの柴橋を遊覧した際、「宮滝に嵐吹くとも寒からし綿にまさる岩を見にきて」と詠みました。又その夕方、菜摘川を下る筏を見て、「夏見川中を流れる花筏うつつをぬかす日暮らしは」と詠んだとも伝えられています。
(花籠神社)
花籠神社
この地の伝承では、義経は「後から必ず迎えに来るから」といって、菜摘の大庄屋である大谷家に、静御前を預けていった。大谷家では静を外から移住して来た者のように見せかけ、小屋を造って住まわせ、陰から世話をしていた。何もすることのない静は、慰めに大谷翁から教えられた花籠を作って遊んでいた。大谷翁は、その花籠を持って吉野山に登り、登山客に売ったところ客は喜んで買ったという。静の住んでいた屋敷跡に、大谷家が中心となって祠を建てられ、静御前を祀り花籠神社と名づけ奉祀されたという伝承も地元に残っています。
義経千本桜(文楽)
延享4年(1747)に初演されたもので、出雲、松洛、千柳による名作の第二作にあたります。題名のとおり義経の都落ちから吉野山隠遁までを扱っていますが、義経はワキ役で、平家方の新中納言知盛、大和の小悪党いがみの権太、佐藤忠信に化けた源九郎狐が主役です。
物語は平家滅亡の後実検に送られた平家方の首級の中で、知盛、維盛、教経の三人が偽者であったという設定を起点として、この三つの謎を解明していく過程が描かれています。又歌舞伎では、猿之助さんの宙乗りをする狐忠信のシーンでおなじみの物語です。初段から五段までで構成されていますが、吉野が舞台となるのが三段から五段目です、このコースでゆかりがあるのは四段と五段です。
(文楽:道行初音旅 写真:三宅晟介)
道行初音旅(四段)
静御前は義経が吉野山にいるとの噂を聞いて、忠信を共に連れ吉野へ急ぐ。途中、忠信を見失った静が初音の鼓を打つと、いつのまにかそこに忠信がいる。二人は義経のことを懐かしみ、忠信はまた兄の継信が屋島の合戦で義経の身代わりとなって能登教経の矢先にかかって討ち死にした様子を物語り、涙にむせぶ。
川連館(四段)
義経一行は九州へ下る船が嵐で吹き戻された為、大和路へ向かい、吉野山の川連法眼のところに身をよせていた。そこへ本国の出羽へ帰っていた忠信が到着。義経はさっそく伏見で預けた静のことを問うが、忠信はまったく覚えがないという。そのとき、またもや静の共をした忠信が来たとの報告、怪しんだ義経は偽忠信の詮議を言いつける。
静が初音の鼓を打つと、思ったとおり忠信が姿を見せた。偽忠信は狐だった。
初音の鼓は夫婦の狐の皮で張られていて、その子狐が忠信に化けたのだった。
親を慕う心に感じて義経は鼓を子狐に与える。喜んだ子狐は、今夜吉野山の衆徒が攻め寄せてくることを教えるのであった。
(二人静)
吉野勝手明神では、毎年正月7日の神事に、ふもとの菜摘から菜を摘んで神前にそなえる風習があった。それでこの年も例によって神職が、女達に菜を摘みにやらすと、一人の女が出てきて、「吉野に帰るならことずけて下さい。私の罪の深さを哀れんで、一日経を書いて弔って下さい。」と頼んだ。そして「あなたのお名前は」と尋ねられると、何も答えないで、夕風に吹きまわされた浮き雲のように、跡形もなく消えた。
そんな不思議な体験をした菜摘女は、そのことを神職に報告するのだが、女は話しているうちに顔つきが変わり、言葉つきも変わってきたので、神職は、「いかなる人がついているのか名をなのりなさい」と言うと、「静である。」と名のった。さては静御前の霊が菜摘女についたことがわかり、「それでは、ねんごろに弔うから舞いを見せて欲しい。」と女に頼む。すると女は精好織りの袴や秋の野の花づくしの水干など、みな静が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝蔵から取り出した。女がその衣裳をつけて、舞いを舞おうとすると、いつの間にか静の霊も現われて、一人の女が二人になって舞を舞うのだった。